アニメに命を返すために

 今、多くのアニメ作品は、CGを使った制作がメインになっているが、それらは3次元空間をベースにしている。XYZの3つの軸で均質に尺度付けられた等質的空間が前提とされ、その中にオブジェクトが配置され、カメラが置かれる。こうした仮想空間では、現実空間以上にカメラは自由に動きまわることが可能だから、原理的にはありとあらゆる映像を映すことが出来る。縦横無尽に宙を飛び回るカメラがめくるめくイマジネーションの世界を映しだす…。アンリ・ベルクソンは、等質的空間によって人間の知覚と行為のフィールドが無際限に広がっていく事態を、「星々にまで届く大きな身体」と表現した。近代に発明された等質的空間の概念によって、人間は宇宙までもを「原理的には」手中に収めることが出来るようになった。

 しかし、そのような空間の概念を無条件に前提とするようなアニメは、本当の意味でアニメーションと言えるのだろうか。アニメの根源的な価値は、「画が動く」ということではないか。絵画は本質的にはタブローであり、フレームを備えている。写真にもフレームが存在する。しかし、実写映画において、それまで固定だったカメラが自由に移動しながら撮影することが出来るようになったことで、その空間の概念が変容したように、アニメにおいても、そのフレームの概念は希薄になってきているように思える。額縁が取り払われ、映画世界は画面の外側にも自明に広がっている。かけがえのない画と画の緊密な連合によって意味や感情を醸成するのではなく、カメラがどう空間内を動くか、どう空間を切り取り、小気味いいリズムでスウィッチするか、ということに価値が置かれている。空間を作り出すのではなく、空間を切り取りパッチワークするという考え方。映画と言うよりはCMやMVに近い発想だ。その都度のインパクトの連続で映像は紡がれていくので、もはや画に物語を伝える力はない。そうした作品では映像よりもむしろ音声が一貫した統率力を持つようになる。今、アニメは目を瞑ってでも見れる。

 そうした事態は、特にセルアニメーションに顕著かもしれない。一枚一枚の絵を積み重ねて描くということは、作者のイメージのすべてを再現することを可能にする。そこには、空間と時間に対するある種の全能性がある。あるいはアニメーションというのは、空間から時間を位置づける技術と言えるかもしれない。絵を描く(空間を画定する)ということが、そのまま運動を紡ぐことにつながるからだ。

 考えるべきなのは、そういう全能感、「なんでもできる」ということに自覚的になることだろう。自分自身も、「アニメであれば実写で出来ないどんな表現も可能だ」と思う時があった。空間にカメラを置く、という実写映画的な考え方をアニメの側が真似て、それを過剰に突き詰めていくことは、アニメの退化にしかならない。100%のイメージの具現化は、そこへと至る身体性を失わせ、より抽象的で記号的なポルノに近づいていく可能性がある(でも、より大衆的な物語を描くということにおいては、そちらの方が都合がいい場合もある。世の中で一般的に信じられている空間性を裏切ることは、多くの人を戸惑わせるので、ストーリーやキャラクターを重視する作品は、それ以外のノイズは少ない方がいい)。

 そう考えるなら、アニメに命を返すということは、アニメに身体を取り戻すということでもあるはずだ。制作中の作者の身体は、その作品に憑依する。ユーリー・ノルシュテイン作品に見られる、ぎこちないカメラの動きや、無数の紙切れの筋肉辺が連動しあって一つのキャラクターの表情を作り出す様は、ノルシュテイン自身の身体感覚そのものであり、物質とそれらが作る宇宙に対する彼の思想そのものの現れである。それは、私たちが普段生きている現実世界に比べれば、明らかに何歩かずれた物理法則で動いているのだが、そういう独自の有機性を持った世界が、「そこに」確かに存在しているということに、祝福にも似た感動と快楽を感じるのだ。しかし、そもそも「そこに」存在するためには、フレームがなければならない。日常世界との区切りを作って距離を設けることが、フィクションがフィクションである条件だから(だから、観客に対する最低限の道しるべもなく、いきなり作者のイメージ世界を垂れ流すような映画はフィクションであることを放棄している)。

 等質的空間に浸透された技術を用いて、そうした真の身体感覚を再現することは可能なのだろうか。これは、CGか手描きか、という表面的な問題ではない(実際、全編手描きで作られたアニメでも等質空間を無自覚に受け入れているものは多い)。アニメという技術で、いかにじりじりと血を滴らせながらうめくような大地の次元に留まることができるか、自由さの誘惑に負けることなく、真の空間性やそこからひねり出される持続に身を置けるか、ということではないだろうか。等質空間が身体性を脱臭し、観念の極北に向かっていけば、行きつくのは虚無しかない。テクノロジーが人間の身体感覚を超え出て発展すると、その先にあるのは破壊だ。自分のちっぽけな身体を超えて何かを為すには、それに見合う倫理的な信念が必要だが、それを備える人はごくまれだ。CGやAIが新たな身体性をもたらすということも考えられるが、それを何の否定的契機も介することなく素朴に実現しようとするなら、極めて非人間的なアプローチになりかねないと思う。

 表現において新たな身体性を実現するには、この等質的空間というものを一度消し去ってしまわなければならないように思える。等質的空間を脱し、それを消滅させ、その根源を辿り直すこと。空間の裏側から空間をとらえ直し、真の空間性を垣間見ることが求められる。そのためには、作者自身の身体を、扱う技術と溶け合わせ、共にその身体感覚を発展させていく訓練をしなければならない。2年ほど前、夢のなかで自分は空間の向こう側へ行くイメージを得た。それはあくまで視覚で捉えられる風景だったが、どこか風景の向こう側へ渡ったような、奇妙な時間の流れがあった。「これだ!これを描きたいのに」と思った。かなり集中的に絵を描いていた時期で、連動する筆と目の動きの鍛錬がそういう夢を起こさせたのかもしれない。身体と技術の融合によって知覚そのものを拡大していくには、想像を絶する集中力と運動神経を必要とするだろう。それは多分、子供が自転車に乗ったり、ピアノを弾いたりすることにも同じことが言える。その覚悟を自分は持てるだろうか。

コメントを残す