手と目 描くことは撮ることではない

 今、コマ撮りで短いアニメを作っている。編集段階で様々なエフェクトを加えること以外は、基本的に全てアナログでの制作。去年の夏ごろ、マルチプレーン式の撮影台を作成したが暫く放置していた。本格的にそれを使って作るのは今回が初めて。わざわざ手間と労力のかかる作り方を選んだ理由はいろいろあるけれど、それはまた書きたい。今後スタイルを探していくときのメモとして、マルチプレーンカットアップをやってみての発見を書いていく。

 とにかく、撮影が全てということだと思う。いま、一般的な商業2Dアニメといって想像されるものは基本的にはセル方式で、1フレーム1フレーム全て動きを描いていくというものだと思う。そこでは、描くことはそのまま撮ることになっていると言えるんじゃないかと思う。キャラの動きに限定して話をすれば、一コマ一コマキャラな動きを描くとは、紙面上でキャラを動かしているわけで、描いたものがそのまま最終的なアニメーションになる。描くこと=動かすこと(アニメートすること)と言ってもいいかもしれない。もちろん撮影と呼ばれるプロセスはあるが、それは絵コンテないしレイアウト通りに各素材をはめ込む、というものなので、そこでの「撮影」は、かなり狭い意味でのものだ。

 だが、マルチプレーン式のカットアップは、描くことと撮ることが完全に分離している。背景やオブジェクト、キャラクターの細かなパーツ(頭部、胴体、四肢…)を描き、それらを一コマ一コマ動かしながら撮影する。撮影で、各パーツを動かすことではじめてキャラが、空間が、世界が現れて来る。だから、そこにかかるウェイトが高すぎる。撮影ですべてきまる。手が震える。自分は、この小さな箱庭の世界(だが、明らかにそれは呼吸している)の時間を進めている、という感覚がある。実写映画で撮影するとき、限られた時間で最善の正解を出すことを求められるが、それにも似た緊張感がある。その緊張とは、イメージと、制限や有限性とのはざまで生まれる摩擦だと思う。俳優の身体は監督の思い通りにはならないし、シチュエーションも臨んだ通りのものにはならない。たが、俳優のもっているポテンシャルを引き出し、その場のエネルギーと交信させることでシーンを成立させるのが監督の仕事。それと同じで、カットアップのキャラクターは、不恰好な人形みたいなもので、現実世界の生き物のような滑らかな動きなんて出来ない。だが、そこにはなにか独特な物理法則がはたらいていて、素材にうまく適合した動きをつければ、不思議と「自然な」動きになる。キャラの性格もすべてその動きによって表現される。撮影のプロセスで、その法則を掴み取り、動きにしなければならない。逆に言えば、撮影してみなければ、そのキャラクターがどう動くか分からないのだ。カットアップの撮影は、そこで全てが生まれる自由な実験空間なのだと思う。(マルチプレーンカットアップにおける制約と不自由性についてはまた書きたい)。ちなみに自分は、キャラクターに擬似関節も仕込まない。すべてのパーツは等価で、機能を限定されない。あらゆるパーツがあらゆるパーツとコネクションする可能性を常にもっている状態をつくりたいからだ。

 それは、偶然性の問題でもある。セルアニメのように、描くことと撮ることがイコールで結ばれる状態は、作家の手と目が一体になっているわけで、その無限回路に侵入する何かは少ない。(だから0から1を生み出すアニメーターは白い紙の前で頭を抱えている)。ちなみに、自分はかつてデジタルでカットアップを作ったことがあるが、そこでは、完全に目(と脳)だけで作っていた。iPad上で手を使って描いてはいたけど、自分の身体を使って描いたという実感がなぜかない。iPadの紙面にはフレーム(タブロー?)が存在しないこととかが関係あるのかもしれない。わからないが、ひとついえるのは、間違いなくそれは物質との対話が欠如していることが原因のひとつといえる。デジタルお絵描きは、究極的にはデジタル画像のピクセル操作をしているだけなので、目だけでできる。手作業とは言い難い。アニメーションに関しても、プレミア上で平面、垂直移動と拡大縮小を組み合わせながら動かしたわけだが、驚きがない。なんというか、想像した通りになったことを確認していく作業で、撮影という概念すらなく、すべて「編集」だった。映像における編集というプロセスは、極めて視覚的で、目に優位性がありすぎると思う。支配的だ。

 それに比べて、カットアップでの撮影は、全身で作っているという感覚がある。何時間も立ったまま、指先に神経を尖らせる。疲弊する。集中力がもたない。箱庭の世界の時間の流れと、作業の時間の流れのあまりのギャップに身体が分裂しそうになる。重力との戦いだ。「インターステラー」で、ある惑星での1時間が地球での23年に相当するという描写があったが、それに近いかもしれない。立っているのがふつうに辛い。

 でも、そうした作業の時間と、箱庭の時間がリンクする瞬間がある。撮影作業なんて、側から見ていたら何をしているか分からないと思う。時には一コマ撮るのに30分くらいかけてずっと小さなパーツを微調整している。でも、その撮影の時点で、最終的に現れる運動のダイナミズムを感じる瞬間がある。まるで自分が箱庭を流れる大気になったかのような感覚。そういうときは、歯車が噛み合うみたいに動きのイメージがそのまま自分の身体全体に浮かび上がるような感じがある。手も目もなく、全身だけがある。

 アナログ/デジタルの陳腐な二項対立を出すつもりはない。そこは本質ではないと思う。問題は、いかにして目や脳の支配性を抜け出るかということだと思う。デジタルはその点で各プロセスがあまりに直接的すぎるから、作っている喜びや驚きが感じにくい。新しいことが生まれるには、有限性との対話が必須だと思う。そこで突如として現れる偶然こそに、予見不可能なものが宿るといえないか。思い通りにならないことがクリエイティブなのだという、表面的な結論を出すつもりはない。でも、そもそも偶然性とは、知性と物質(身体)の対決によってでしか生まれない。知性は予定通りのものを予定通りに実現させる。だから知性には驚きがない。物質は、ただ、そこにあるものだ。知性は物質に言うことを聞かせようとするが、物質はそれに歯向かってくる、何の表情もなく。物質に裏切られる瞬間に本当の快楽がある。そのとき、知性は魂を、精神を発見する。全身全霊とはこのことかもしれない。

石に刻まれた髪

石に刻まれた音

石に刻まれた眼は永遠に開く。

西脇順三郎

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